連合艦隊は丁字戦法を採用した。実際の進展は次のようなものだった。
レイアグト シアー リトル インジゴ マテハン トリプシン 万木かぶ ストロボ あんず ミング ローカル シャボン アーチ トミート スケー りゅう バーバー テンニン 対策いな パスタ 世界の橋 トレッ パレット レセル イスト トワイライ スター マカロ フォト はつとら ローン ザコン こくちょ ミシシ ミート ブーイ ディティ メルヘ ダウンタ バイフォー ゼット 発酵SEO フェムトセル 夕焼けの丘 サンテ ドリア ノーサイド タギング オミット オプシン
敵艦隊に対して平行にすれ違う航路(反航)をとる
すれ違い直前で敵前回頭を行う
自艦隊の足の速さを頼りに敵艦隊の先頭に対して斜め後方から敵進路を遮蔽する(このため、実際には「丁」より「イ」に近い形になる)
当時の海戦の常識から見れば、敵前での回頭(しかも2分あまりを費やしての160度もの回頭)は危険な行為であった。実際、旗艦であり先頭艦であった三笠の被弾数48発の内、実に40発が大回頭時に無防備になった右舷に集中しており、帰還時の三笠は、突き刺さった砲弾の重みだけで、かなり右舷側に傾いていたという。しかし、一見冒険とも思える大回頭の2分間には、日本海軍の緻密な計算と英断が込められていた。それは次のようなようなものである。
確かに連合艦隊は2分間余り無力になるが、バルチック艦隊には照準合わせなどのため数十秒から1分程度の時間がどうしても必要であり、第1弾を打つまでに時間がかかる。
当時は照準計の精度が悪く、第1弾が艦橋や主砲などの主要部に1発で命中することはごく稀であった。
そのため、第1弾の着弾位置(水柱)から照準を修正して第2弾を正確に命中させるという手法をとることが多かった。しかしバルチック艦隊が使用していた黒色火薬は、発砲後にその猛烈な爆煙によって視界が覆われ、煙が晴れて第2弾を放つまでに時間がかかる。すなわち回頭中に第2弾は飛来しないか、慌てて撃つため命中精度が極めて低い。
バルチック艦隊は当然旗艦である三笠を集中砲撃するが、東郷としては最新鋭で最も装甲の厚い三笠に被弾を集中させ、他艦に被害が及ばないことを狙った[6]。万一三笠が大破し、自らが戦死してでも丁字の状態を完成させることを最優先とした。東郷は砲弾飛び交う中、艦橋を一歩も動かなかった。
また、前述の旅順封鎖中などの艦隊訓練により、東郷は各艦の速度、回頭の速さなどをいわゆる「クセ」を見抜いており、これが敵前大回頭を始める位置を決めるのに役立った。
常識にとらわれず、合理的に勝利を追求した結果、丁字戦法を成功させた。敵艦隊に対する十分な分析と、有効射程範囲のギリギリの所を見極めて「トーゴー・ターン」を決めた東郷の采配は、連合艦隊を勝利へと導いた。
発射速度
連合艦隊は大口径砲の門数で劣っていたため射撃精度とともに速射も重視していた。 当時英国より輸入したコルダイト(硝酸エステル系無煙火薬)は発砲しても煙が少なく速射に有利であり、連合艦隊は発射速度においてバルチック艦隊を上回った。バルチック艦隊の主砲は新型戦艦以外発射速度が非常に遅く、遠距離砲戦で命中弾を期待するのは非常に難しかった。
斉射戦術
日露戦争以前の砲戦では各砲がバラバラのタイミングで発砲していた。この方法は砲が小さく射程が短い時代は有効であったが、砲が大型化し射程が伸びるにつれて、着弾が判りにくいこと、発射の衝撃で船体が揺れ照準が狂うことなどの問題が生じていた。日露戦争で日本海軍は、艦橋から射撃諸元とタイミングを伝声管で伝えて一斉射撃を行なう斉射戦術を世界にさきがけて実戦で採用し、事前の訓練の成果もあって高い命中率を記録した。一斉射撃で砲弾の雨を瞬時に敵に浴びせさせる近代戦術で、バルチック艦隊が一方的に火達磨になるのを目の前に見せられた世界の観戦武官は驚愕した。
一方バルチック艦隊では、各砲がめいめいに発砲する従来どおりの戦術(独立撃ち方)を用いた。さらに黒色火薬による真っ黒な煙によって視界が遮られ砲側観測が満足に行なえなかった。このため正確さを欠いたままの連続射撃しか行なえず低い命中率に止まった。なお、日露戦争の直後にイギリスで、斉射戦術に特化した新型戦艦ドレッドノートが開発される[6]。
艦隊編成
連合艦隊は常に速力・火力が同じ2隻が1組となって敵と対峙し、2対1の優位な状態で戦えるようにしていた。連合艦隊は同種の艦をグループにまとめるように留意しており、第1艦隊は砲戦力、第2艦隊は機動力、第3艦隊は旧式艦としてはっきり運用の仕方を分けていた。このため、艦隊運動による効率的な攻撃、追撃、退避が可能になり、バルチック艦隊を逃さない徹底的な追撃戦を行えた。バルチック艦隊は速力の速い艦と遅い艦が混在した艦隊編成をとっていた[6]。
新技術
伊集院信管
当時の艦砲は徹甲弾で威力が小さく敵艦の装甲を貫通できないことが多かった。榴弾も信管に問題があり、敵艦に命中しても爆発しない不発弾が多かった。連合艦隊は徹甲弾による装甲の貫通よりも榴弾による上部構造の破壊を狙い、信管に伊集院五郎少将の開発した伊集院信管を採用した。この信管は鋭敏で、ロシア艦の装甲面で破裂した砲弾は下瀬火薬の特性によって火災を発生させ、上部構造を殲滅し無力化させた。 ロシアの砲弾は徹甲弾なので煙突などに当たると穴をあけてそのまま突き抜け反対側の海中に落下する。しかし日本の砲弾は瞬発式で、ロープに当たってもその場で破裂、下瀬火薬の猛烈な爆速で、何もかも粉々になぎ倒したうえ、その高温で火の海にしたのである[6]。ロシア艦隊に下瀬火薬の豪雨を一方的に浴びせたことが、ワンサイドゲームの一因とされる。
ただ、伊集院信管はあまりに鋭敏なため、膅発事故の原因と疑われることもあった。「膅発」とは、連続射撃を経た砲身が赤熱することによって、発射時に砲弾が砲身内で爆発する事故で、第一次世界大戦直前に防止装置が発明されるまでは発生確率は高かった[6]。日本海海戦では「三笠」と「日進」および「アリヨール」で膅発が発生した。後の連合艦隊司令長官山本五十六(当時は高野姓)は少尉候補生として「日進」に乗り組んで海戦に参加したが、この膅発に巻き込まれ、左手の指2本と右足の肉塊6寸を削ぎ取られる重傷を負った。
下瀬火薬
連合艦隊は砲弾の炸薬に下瀬火薬を導入した。これは当時炸薬の主流であった黒色火薬より爆速がすさまじく速く、命中時の破壊規模は当時の火薬常識を大きく超え、ロシア艦の構造物は粉々に破壊された。戦後、ロシア艦の破壊の凄まじさから日本に謎の下瀬火薬ありと諸外国から恐れられた。さらに、下瀬火薬はその高熱によってペンキなどの可燃部全てを燃やし、粉々に破壊した甲板を火の海にした[6]。生き残ったロシア水兵は「今でも信じられない、鉄の大砲が炎を上げて燃えていた」と下瀬火薬の恐怖を述懐している。
下瀬火薬は海軍技師の下瀬雅允博士がフランスのピクリン酸を主成分とする「メリニット」火薬を分析・コピーしたものであるとされている。しかし、当時の火薬技術は国家機密であり、その詳細を日本が入手することは困難であり、下瀬博士自身は、独自開発を主張している。ヨーロッパではメリニットの高感度性と毒性を嫌って使用されなかったが、日本海軍では爆発事故の可能性には目をつむって砲弾の威力を優先した[6]。下瀬博士は爆発事故で重症を負いながらも猛研究を行い、弾体の内部に漆を塗ると鉄とピクリン酸の反応を防げることを発見、これを実用化して砲弾を完成させた。しかし日本海軍には砲弾を長期間保管したときの安全性を検証する余裕がなかったため、日露戦争後に戦艦「三笠」の爆発沈没事故[15]をはじめ何度も爆発事故を起こし、多数の死傷者を出したといわれている。
三六式無線電信機
当時、無線電信技術はグリエルモ・マルコーニによって1894年頃に発明されたばかりだった。日本海軍はこの最新技術をいち早く採用し、1903年に三六式無線電信機を制式採用した。三六式無線電信機は、信濃丸によるバルチック艦隊発見の報告や、戦闘中の各艦の情報交換に活用され、戦況を有利に導いた。この三六式無線電信機は安中電機製作所(現アンリツ)の製品であり、蓄電池は島津製作所の製品である。
宮原式汽罐
宮原式汽罐は当時世界に衝撃を与えた画期的な新汽罐。価格が当時の世界標準価格の半値で、給水、掃除が容易で、乱用に耐えられ、燃費がよく、強力な馬力で、しかも小型とまさに画期的な発明で、日本海軍の高速化をもたらした。
麦飯
1884年(明治17年)に、海軍医務局副長の高木兼寛は、当時、未知の病であった脚気を白米の中に大麦を混ぜた麦飯食で鎮めることができることを発見し、1888年(明治21年)に日本最初の医学博士となった。この結果、日本海軍は脚気の撲滅に成功し、日本海海戦の勝因の一つとなった。
参加兵力
大日本帝国海軍
連合艦隊(連合艦隊司令長官:東郷平八郎大将、参謀長:加藤友三郎少将、先任参謀:秋山真之中佐、参謀:飯田久恒少佐、清河純一大尉)
第1艦隊(旗艦:三笠、東郷司令長官直率)
第1戦隊(旗艦:日進、司令官:三須宗太郎少将)
戦艦:三笠、敷島、富士、朝日
装甲巡洋艦:春日、日進
通報艦:龍田
第3戦隊(旗艦:笠置、司令官:出羽重遠中将)
巡洋艦:笠置、千歳、音羽、新高
第2艦隊(旗艦:出雲、司令長官:上村彦之丞中将、参謀長:藤井較一大佐、先任参謀:佐藤鉄太郎中佐、参謀:下村延太郎少佐、山本英輔大尉)
第2戦隊(旗艦:磐手、司令官:島村速雄少将)
装甲巡洋艦:出雲、吾妻、 常磐、八雲、浅間、磐手
通報艦:千早
第4戦隊(旗艦:浪速、司令官:瓜生外吉中将)
巡洋艦:浪速、高千穂、明石、対馬
第3艦隊(旗艦:厳島、司令長官:片岡七郎中将、参謀長:斎藤孝至大佐、参謀:山中柴吉中佐、百武三郎少佐)
第5戦隊(旗艦:橋立、司令官:武富邦鼎少将)
巡洋艦:厳島、松島、橋立
装甲海防艦:鎮遠
通報艦:八重山
第6戦隊(旗艦:須磨、司令官:東郷正路少将)
巡洋艦:須磨、和泉、千代田、秋津洲
第7戦隊(旗艦:扶桑、司令官:山田彦八少将、参謀:伊集院俊少佐、小林躋造大尉)
装甲海防艦:扶桑
砲艦:高雄、筑紫、鳥海、摩耶、宇治
特務艦隊(司令官:小倉鋲一郎少将)
仮装巡洋艦:亜米利加丸、佐渡丸、信濃丸、満州丸、八幡丸、台南丸
特務艦:熊野丸、春日丸
駆逐艦隊
第1駆逐艦隊(司令:藤木秀四郎大佐)
駆逐艦:春雨、吹雪、有明、霞、暁
第2駆逐艦隊(司令:矢島純吉大佐)
駆逐艦:朧、電、雷、曙
第3駆逐艦隊(司令:吉島重太郎大佐)
駆逐艦:東雲、薄雲、霞、連
第4駆逐艦隊(司令:鈴木貫太郎大佐)
駆逐艦:朝霧、村雨、白雲、朝潮
第5駆逐艦隊(司令:広瀬順太郎大佐)
駆逐艦:不知火、業雲、夕霧、陽炎
水雷艇隊
第1艇隊:4艇、第9艇隊:4艇、第10艇隊:4艇、第11艇隊:4艇、第14艇隊:4艇、第15艇隊:3艇、第17艇隊:4艇、第18艇隊:4艇、第19艇隊:4艇、第20艇隊:4艇[6]
ロシア帝国海軍
第2・第3太平洋艦隊(司令長官:ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー中将)
第1戦艦隊(旗艦:クニャージ・スヴォーロフ、司令長官:ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー中将、参謀長:クラピエ・ド・コロング大佐)
戦艦:クニャージ・スヴォーロフ(艦長:イグナチウス大佐)、インペラトール・アレクサンドル3世(艦長:ブフウオストフ大佐)、ボロジノ(艦長:セレブレーンニコフ大佐)、アリヨール(艦長:ユング大佐)
第2戦艦隊(旗艦:オスラビヤ、司令長官:フェルケルザム少将)
戦艦:オスラビヤ(艦長:ベール大佐)、シソイ・ウェリキー(艦長:オーゼロフ大佐)、ナワリン(艦長:フヒチンゴフ大佐)
一等巡洋艦:アドミラル・ナヒーモフ
第3戦艦隊(旗艦:インペラートル・ニコライ1世、司令長官:ニコライ・ネボガトフ少将)
戦艦:インペラートル・ニコライ1世(艦長:スミルノフ大佐)
装甲海防艦:ゼネラル・アドミラル・アブラクシン、アドミラル・セニャーウィン、アドミラル・ウシャーコフ
巡洋艦隊(司令長官:エンクウィスト少将)
第1巡洋艦隊(旗艦:オレーグ)
一等巡洋艦:オレーグ、アウローラ、ドミトリー・ドンスコイ、ウラジミール・モノマフ
第2巡洋艦隊(旗艦:スヴェトラーナ)
二等巡洋艦:スヴェトラーナ、アルマーズ、ジェムチウグ、イズムルード
第1駆逐艦隊
駆逐艦:ブルヌイ、ペドウイ、ブルスツルイ、ブラーウイ
第2駆逐艦隊
駆逐艦:グローズヌイ、グロームキー、ボールドルイ、プレスチャーシチー、ペズゥプリョーチヌイ
随伴艦船
仮装巡洋艦:ウラル
工作船:カムチャツカ
輸送船:アナズイリ、イルツイシ、コレーヤ、ルース、スウィーリ
病院船:アリヨール、コストローマ[6]
記念碑
福岡県福津市に日本海海戦紀念碑がある。
日本海海戦を題材とした作品
映画
『撃滅』(1930年、日活)
『明治天皇と日露大戦争』(1957年、新東宝)
『日本海大海戦』(1969年、東宝)
『日本海大海戦 海ゆかば』(1983年、東映)
小説
司馬遼太郎『坂の上の雲』
吉村昭『海の史劇』
軍歌
日本海海戦を題材とした同名軍歌は4つ作られた